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CNL’17 CAMBODIA ⑤ – キリング・フィールド –

『 しあわせとは、「なる」ものでなく「気づく」ものー 』

The Killing Fields・・・

2017年8月19日(土)pm1:00ー

数年ぶりにキリングフィールドへ行ってきた。
ここはポル・ポト政権時代の処刑所。

当時のカンボジアでは、
全人口800万人のうち、
200万人とも300万人ともいわれる
罪なき人々が殺された。

トゥールスレン刑務所に収容された人々は、
激しい拷問を加えられた後ー
『新しく住む場所へ行く』と告げられて、
処刑場である小さな村へと連行されたー

処刑の対象となる人々は、
ポルポト原始共産主義に異論を唱える知識人、
当時のアメリカの爆撃から逃れる為
農村から都市部へ移住した人、
ポルポト派に反対した人々。

また、過酷な労働と飢えに苦しみ、
食べ物を盗んだ人、昔の方が良かった、
などと漏らした者も密告され、連行された。

小さな村の各所に自分で穴を掘らされ、
その自ら掘った穴へ、殺されて、埋められた。

遺体が埋められた穴は
村の129カ所にあり、
後にその一部が掘り返され、
地面にはその時にできた
大きな穴が無数に残っている。

450体もの遺骨が見つかった
大量埋葬地では発見当時、
遺体から発生するガスによって
埋められた土が異様に盛り上がり、
その山から立ち上る臭いは、
とても酷い死臭で立ち込めていたというー

首のない166体が埋められていた
大量埋葬地の先にはガラス箱があった。

異を唱えたり脱走を試みた者は、
兵士であっても殺されたそうだ。
見せしめに、斬首されて。

女性と子どもの遺骨が大量に見つかった穴。
大多数は全裸だったそうだ。

人前で全裸にさせられることは、
慎み深いカンボジア女性にとってそれだけでも地獄。

…この場所は、我々の想像を絶する
凄惨で残酷・残虐極まりない場所だった。

掘り出された遺骨は8985体にのぼり、
慰霊塔にご安置されている。

慰霊塔内は17段に分かれており、
そこにはギッシリと遺骨が安置されている。

ちなみに17段に分かれているのは、
ポル・ポト派がプノンペンを占領した
1975年4月17日の「17」を表している。

当時は銃の弾が高価なため、
処刑には銃を用いず、
身の回りの農耕具で死に至らしめた。

キリングフィールド内には、
まだ掘り返されていない箇所はいくつもあり、
場所によっては衣類が散乱しているカ所もある。

・・・これは衣類が散乱しているのではなく、
遺体がまだ無数に埋まっており、
亡き方の衣類が地面から顔を出しているだけなのだ。

…確かに下を向いて歩いていると、
ところどころに歯や骨が落ちていた。

・・・この場所が
当時いかに凄まじく凄惨な場所だったのか、、
ただただ絶句するばかりだ。

この村の中に『キリング・ツリー』と呼ばれる、
世界一悲しい木が立っている。

当時、泣き叫ぶ母親から赤ちゃんを引き離し、
この木に頭を打ちつけて殺害したという悲しい木。

この木に世界中の人々が
平和の願いを込めてミサンガを結んでいくー

・・・このような凄惨な虐殺の地が、
カンボジア全土には
300ヶ所以上確認されているというから、
ただただ愕然とするばかりだ。

つまり、この地は、カンボジア全土の
1/300のキリング・フィールド、、。

カンボジアへ行き始めた理由ー

この悲しい現実が起きていたのが1975〜1979年。
つまり、私が生まれた1976年の出来事だった。

…という事実が、
今の活動に至る最初の動機となっているー

初めてカンボジアへ来た長男にとっても、
かなりきつい場所ではあったが、
「平和とは何か?」、この国の歴史と背景、、

そして、過去の歴史から立ち上がる
今のカンボジアの人々の姿を、
目を背けることなく見てもらいたいと思った。

経済発展著しいプノンペンでは、
もう数少ない、当時の様子を知る貴重な場所。

CNLスタッフのみんなでこの国の過去〜今を
共有できたことも本当に良い機会となった。