大牟田から熊本へ
2016年4月23日(土)、今日は朝から大牟田の親戚寺院でのご法事。
その後、午後より単身熊本へ向かった。
今回の理由は、大学剣道部の先輩で被災されたお寺へのお見舞い、
そして同じく被災した親戚のお見舞いに。
また、行く途中の各避難所へ、CNLの仲間から託された救援物資を届けるため。
pm0:12ー
大牟田市内を出発。
有明海添いの389号線〜501号線を通ってまずは一路、下益城郡美里町を目指す。
pm0:58ー
天水町に入ったところから景色が一変する。
辺りはブルーシートで覆われた家屋が目立ち出すー
熊本市内にさしかかり、信号待ちをしていると右手にお寺…
本堂の屋根が痛々しい。・・・こちらのご住職の心中を察すると、、胸が痛くなる。
熊本市内へ入りさらに進むと、ナビにはたちまち×印のマークでいっぱいに。
下益城郡美里町へ
大牟田から国道を通って3時間が経過した頃、
ようやく下益城郡美里町の大学時代の剣道部先輩のお寺へ到着。
G先輩が温かく出迎えてくださった。
車のドアを開けた瞬間、別府温泉へ来たときのような、硫黄の香りが立ち込める。
開口一番、
私:『あれ?先輩、このあたりは温泉地ですか?』
G先輩:『共同浴場はあるけど温泉地ではないよ。』
私:『でも何か硫黄の香りがスゴイですね(汗)』
G先輩:『・・・言われてみたらそうやな。天変地異かな?ハハハ(笑)』
・・・いや、笑えない。
その後、G先輩にお寺を案内していただいた。
美里町では震度5強を観測。
被害はそこまでなかったと仰っていたが、納骨堂の下の部分に亀裂、、
振動で上段部分がパックリと分離していた、、。
築400年のご本堂。ご本尊の阿弥陀さまは隣の会館に避難されていました。
余震が続くことからお荘厳もままならず、地震が落ち着くまではそのままにしているとのこと。
大学剣道部の先輩であり、宗門としては勤式指導所・特別法務員の大先輩。
本堂の仏具、お飾りにはミリ単位で配置にこだわっておられる先輩。
・・・いかに今が異常事態であることがよくわかりました。
下益城郡美里町から上益城郡益城町へ
G先輩から色々なお話しを伺った後、
今回震災でとてもひどいダメージを受けた上益城郡益城町のA先輩のお寺へ向かう。
G先輩:『益城町への行き方はわかる?』
私:『ナビがあるのでたぶんわかると思います。』
G先輩:『もしかしたら場所によって通行止めになっているかもしれないから、一緒にいこう。』
・・・なんと有り難きこと、、。
地元の道に詳しい、頼もしい先輩に先導され、車に二台で目指すは上益城郡益城町。
美里町から車で向かうこと50分ー
益城町付近にさしかかると辺りの景色尚一変し出す、、
ガタガタな道路、、
辺りの地面は割れ、倒壊の家屋が至る所でみられる、、
益城町最大の避難所を横目に見ながらまっすぐ進むと、震源地付近へ。
信号機が点灯していない危険な状況。
道路を挟んで左側は完全に壊滅状態、。
地盤ごとやられているため、どこがどうなってこの家屋が傾いているのか、、
ただただ、絶句するばかり。
小さな小道は様々な所で断層のずれによって道路に厳しい段差。いたるところが通行止めとなっていた。
そんな中、携帯電話で道を聞きながらなんとかA先輩のお寺に到着ー
先輩は笑顔で明るく出迎えて下さったものの、お寺は、本当に悲しい状況になっていたー
悲しい光景が広がっていたー
築200年の本堂は、震度7と相次ぐメガクラスの地震に堪え忍んでいるよう。
しかし、あと一回大きな揺れがくれば、・・・おそらく前に倒れるだろうとご住職、、。
すでに御本尊は避難。
立派な御本堂内は本当に悲しい状況になっていた。
A先輩は本震当時、この本堂の壁裏ソファで寝ていたところ、本震に襲われたそう。
当時がどれだけ恐怖だったことか、、想像を絶する、、。
二度の震度7によって、県内最多20名の方が亡くなられた益城町。
その方々の5分の1が、こちらのお寺のご門徒さん方だったそう、、
最初の地震で電気も水もストップし、丸二日寝ていない状況下でやっと家に電気がついた、、
極度の疲労と安心感でお家に戻られた時、あの「本震」にあわれたそうだ。
本当にやるせない、、。
『ご門徒さんがお寺に来られることがあるだろうから』と避難所へは行かれず、
今もお寺のお庭のテラスにダイニングテーブルを置いて、坊守さんと外で生活されていらっしゃる。
寝るときはお寺の駐車場で車中泊だそう、、。この日は雨。
『外での生活で、雨は辛かねぇ、、』とポツリ。
・・・今度は作業着を着て、お手伝いさせていただこうと思う。
物資を届けに益城町H公民館へ
後ろ髪引かれる思いで先輩方とお別れをし、これから単身で避難所をまわる。
日が暮れ始め、少し焦りを感じながら益城町H田をさらに奥に進み、避難所となっている公民館へ向かう。
車一台しか通れない道、倒壊した家々がせり出している道をさらに進むと、小さな集会所があった。
この日の朝の時点では「同じ避難所でも支援物資の格差がある」と報じられ、
その一例となっていた公民館。こちらへ福岡から持参した物資を届けた。
しかし報道後、すぐに物資は行き渡ったため、沢山の積んできた物資の中から、
『紙コップ、紙皿、フォーク、割り箸、魚肉ソーセージをいただきます。』と。
お水、お茶、生理用品、紙おむつ等は間に合っているとのこと。
益城町総合体育館へ
最後は益城町最大の避難所、益城町総合体育館へ。
ごったがえす避難所。大変な思いをしていらっしゃる人々で溢れかえっていた。
こちらに、
・フォーク2500個、
・紙コップ3000個、
・紙皿1000個、
・お茶お水
・アレルギーフリーフード
・生理用品
・紙おむつ を届けて来ました。
しかし、この日23日の時点で、物資はすでに供給過多だった。
ライフラインが復活したところも多く、
特にお茶お水は、事前に数カ所の避難所へ問い合わせても、お茶お水はどこもやんわり断られた。
やはり、刻一刻と変わる現地の状況。
FacebookやTwitter等で一日中溢れる情報、その信憑性もさることながら、
情報の「鮮度」を見極めることが非常に大事だと言うことがとてもよくわかった。
この時点で持参してきた物資で一番喜ばれたのは、紙コップ、紙皿、フォークだった。
帰り際の植木インター付近のコンビニ。
ジュース等の飲み物はほとんどなく、お茶お水だけは揃っていた。
現在の時点で食糧配給や炊き出し、支援物資の配給も増え、
いのちを繋ぐという第一段階を終えて、次のステージに突入しそうです。
次は倒壊家屋の片付けなど、ボランティアの出番。
そして仮設住宅への入居など生活再建を見据えるステージへ。
・・・しかし益城町役場は被災し、今もまったく再開のメドがたっていないため、
住宅被害に伴う公的支援申請を行う「罹災証明書」も、益城町ではまだ発行できずにいるそう、、。
支援の形は、刻一刻と変わっている。
昨日まで必要とされていたことが、今日はもう不必要で、
新たな必要なモノが次々と生まれている状況でした。
支援の形は、これからも状況を見守りながら、
その時々でできることを考え、カンボジアチャリティーで行ってきた活動同様、
『無理をしない程度に、自分ができる範囲で、継続した活動』
を行っていきたい。